毎度の事ですよ。

家事・文具・生活に個人的な趣味と健康を綴った日記。また住宅建築の専門家としてコメント投稿。

駆け出しだった頃の私。

 私の仕事は、住宅建築。一口に住宅建築と言ってもジャンルが広い。その中で私は設計を担当している。最初に就職したのは街のインテリアショップ。勿論リフォームなども請け負っていたため現地調査、実測など散々行った。カーテンも扱っていたのでインテリア全般を学ぶことができた。

続いて私が勤務したのは「歯科医院」専門の工事店兼先鋭事務所。はじめは工事店側で施工ノウハウを学ばせていただき、実際に各施工店さんと世を徹しての作業に明け暮れていた。ここでの経験は後の私の仕事の核をなすものとなっていった。

その部署に数年在籍し、突如として設計部門に異動することとなった。20代半ばを過ぎた頃だ。

そこでの上司にはトコトン建築行政についてを叩き込まれた。

まだまだ昭和の時代が色濃く残る時代。

その上司は私になんの指示指導もせずに、当時門前仲町にあった事務所から栃木県足利市の土地区画整理組合に申請を出してこい(76条)とか、宮城県多賀城市の土木事務所に確認済み証を取りに行けとか、今思えば滅茶苦茶な指示だった。

私はそれでも「任されている」と言う事実に喜びを覚え、わからない事は現地で調べ、見聞きして結果を出して戻った。

現代のように、情報も電子マネーもない時代の事。携帯電話もアナログでやっと持ち運べるようなムーヴァという機種が出たばかり。実質、連続通話は20分もたなかった。

併用してポケベルを携帯させられていた。

この不便さが今となっては懐かしくもある。

30代前半までこんな調子で実務経験を積んで、コンペに応募したりと充実した設計業務に取り組んでいた。ところが、人間の欲というか、身の程を知らぬというか、「独立開業」の道を選んでしまった。夢は大きく、しかし現実は厳しく。

ちょうど「構造計算偽装事件」と言う逆風もあり事務所経営を断念。二年間の間に茅ヶ崎市の狭小地住宅、千葉の豪邸、他数軒の設計と監理を依頼され竣工させたのみ。

全力疾走の二年間であったためか、記憶に残るものがあまりない。豪邸の敷地調査、狭小地に建ち上がった住宅。この場面しか覚えていない。

この頃も今のように情報化には程遠く、せっかくに実績とも言える写真データはPCが落ちると同時に消えてしまった事が残念でなりません。

今はクラウドをうまく活用できればこんな事は起こりません。

経験だけは人一倍と今でも自負できるところではあります。

但し思い返せば、身の程知らずもいいところ。

事務所を立ち上げる際も「情報収集」すらやっていなかった。に値します。

その後、かろうじて再就職できたものの「契約社員」の立場は厳しく決して居心地がいいとは言えません。私にとって「独立」するまで走り続けてきた時代がまさに「しごとの思い出」として心に刻まれ、「その後」のしごと人生は自らの失敗の「後処理」となってしまっています。

年齢からも「出世・昇給」など望めるわけもなく希望が湧き上がるような話題も皆無。

とにかく、自分にしかできない何かを虎視眈々と狙ってますが、かかりません。

 私が駆け出しの頃から35年。

時代は大きく変わり、机上で世界情勢を把握する事ができる時代。2度目の東京オリンピックは延期となり、地球環境の激変にも警鐘が鳴らされていると言っても過言ではないかもしれません。

いやいや、大げさに話がそれました。

35年間、業界に在籍し今も現役。

初対面で施主様にいろいろな事をご説明し、判断していただくお手伝いをしています。

この最中、スマホ片手にネット検索する施主の増えた事と言ったら尋常ではなく、にわか知識と言っては失礼極まりないんですが、その場の知識は私を軽く上回ってしまいます。

新人の時しか使った記憶のない「お調べして後日ご案内いたします」の使用頻度が上がりました。

IOTなどはその代表的なもので、使う製品の互換性など破茶滅茶。

それに加えて、環境配慮型住宅関連の「申請業務」は未だに煩雑としていて。。。

いやー、昭和男子の時代も現役には厳しい世の中になりました。

やはり人並みに出世し、第一線から退けるような立場に身を置き将来設計を考えておくべきでした。

だから私は、今も副業を探し、事務所の負債を抱えボロ雑巾のように働くのみと自覚しています。

そんな私は「極々偶に」我が青春の駆け出し時代を振り返り、人生の転機を伺っています。

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